夫は2022年5月亡くなりました。このページはこれからを共に生きていくために作りました。

追悼 どう生きてきたかこそが大切

                         2022年11月  瀬谷 道子

夫は2022年5月22日、脳幹出血で突然逝ってしまいました。

新聞・雑誌の編集、通訳・翻訳など幅広く働いていました。

この日の夜、夫は私がこの年に出版した本の作業をパソコンでやっていました。その10分後、自室で倒れていたのです。一瞬のことでした。

 

夫と私は結婚以来、遅いときは夜中2時までもリビングでお互いに本を読んだり原稿を書いたりするのが日常で、私が疲れてくると、「コーヒー淹れようか?」と尋ねてくれるのが習慣でした。

亡くなった前日は大雨でした。

夜。その日はコーヒーが切れていました。夫、「君、飲みたい?」「いいよ、雨だから」と私。でも夫は深夜買ってきてくれ、黙って私のパソコンの側においてくれたのです。その夜、夫は飲まなかったのですが。

 

夫と私は互いが日本民主青年同盟の中央委員会に勤務しているときに出会い、ともに民青新聞で活動する中で結婚。私はその後もずっと新聞畑で働いていたので、全国を飛び回る私を支え、内勤で子どもの世話をしてくれていました。保育園の先生も子どもが発熱すると、まず夫の勤務先に電話したもの。子どもが病気上がりでまだ保育園に預けられなかったときは、背広姿に子どもをおぶい、綿入れのねんねこで都内の中心、池袋経由で出勤した夫を思い出します。私なんかそんな恰好で通勤なんて、とてもできませんでした。

 

家族をとても大切にしてくれ、私はむろん、子どもをとてもいとおしんでくれました。長男は小Ⅰで癌で亡くなってしまったのですが、私が休職して看病しているのに、ほとんど毎日病院に詰め、勤務先から出社を請われても子ども優先で生活していました。

 

私は40代で新聞記者の傍ら、女性記者の仲間たちと、あまりにマスコミの現場で女性がし虐げられていること、私たちが読みたいものがないからと、全国版の女性誌を立ち上げました。このときは私の原稿を割付、写真を撮り、発行・発送作業、読者の名簿管理までやってくれ、私はひたすら書きまくってていいという環境にしてくれました。

女性誌は2021年に25年目で閉じるまでかかわってくれたのです。著名な女性へのインタビューでは少なくない方たちが夫の紹介でした。その時代に求められている人材を必ず探し、コンタクトをとってくれたのですが、付き合いの幅広さ、それも女性なので、驚いたことがあります。夫は女性誌が無事に幕をおろし、私の最後の出版と決めていた著『あした転機になあれ』を手掛けて、逝ってしまったのです。

 

常に私をフォローして何事にも優先してくれていたためか、あまり夫のことを知らずにきたことを、今回思い知らされました。

夫は我が家で、たくさんの友人に囲まれて旅立ちました。中学、高校、大学から職場、趣味の仲間と幅広い方たち150人が駆けつけてくださり、何事にも真摯に向き合い、探求心が強かったこと、文芸への楽しみも多彩だったことを知りました。ライフワークだった民族芸能を守る会の活動では事務所に日参、落語や講談、浪曲などについて玄人はだしだったようです。

水戸一高の英研の仲間の話。英語のスピーチ大会荒らしだったらしい夫。ある方が言われるには「取り上げるテーマは大体その頃話題になった話なのに、彼はほとんど知られていない問題を発掘してきて、独自の視点で展開していた」とのこと。優勝すると部室に来て腰あたりで小さくこぶしをにぎり、やったというアピールをすると、優勝杯を置いて黙って帰っていたらしいのです。

翻訳については「訳が適切かとことん調べ尽くし、あきらめるとか、妥協することがなかった」とか。

 

そんなことを聞くと、私も思い当たります。私はエッセイ塾も開いていて、塾の生徒の本も作っているのですが、出版まで仕上げてくれるのは夫。私が点検した生徒の原稿を見ては「こんな川はここにはないはず。この時代にこういうことはなかったはず」と「イチャモン」をたびたびつけます。「いいの、本人はそう思っているんだから」となげやりになると、「君はそれでも編集者なの?」と苦言。黙って調べ尽くして訂正してくれていたのです。

 

こんな性格は10年前、夫が生死を分かつ大事故にあったとき、身に沁みました。

頭にひどい損傷を受けた夫は、退院時、医師から「6歳の知能しかないだろう」と寝たきりも含めて断言されました。そんなはずはないと、無知ながら「夫を信じた」私ですが、見事に「自分を取り戻す」日々を送り続けたのです。枕元に積み重なった初歩の英会話や英文法の本等ー。

 

事故が記憶にない夫は、復帰は無理だろうからと私が職場から夫に断りもなく私物を送り戻してもらっモノを見ても、私をなじることもせず、淡々と「分からなくなった」ものを手繰り寄せるように終日勉強していました。事故に遭ったことを初めて納得したのは、退院後元の職場に出向き、出勤簿を見たときでした。事故の記憶は完全にスッポリ抜けていたのです。納得できないことを受け入れるのは大変だったと思いますが、口にすることはなく、淡々と「やるべきこと」を続けていました。

 

事故前から取り組んでいた老齢年金の掛け捨て裁判では弁護士をたてず勉強し、地裁で勝利、高裁も勝ちました。判決当日のこと。当時は安陪政権下ですから、私は「不当判決と書いた幕を持っていったら」と言ったのですが、なんと「勝訴」と書いた幕を作っていて、しんぶん赤旗に掲載されました。

2年前には武蔵大学の永田浩三教授に請われて「コメ騒動とジャーナリズム」と題して2時間近くの講演もしました。共著で出版した『米騒動とジャーナリズム』は第22回平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞しています。

このときは大変でした。夫がなんかやるみたい。でもはっきり言わない。たぶん事故前の自分と同じ感覚でいたからだと思います。頭の損傷は相当ひどく高次機能障害とされ、できないこともありました。たぶんどうしてなのかフシギだったのではないでしょうか。何かにぶつかると、そのたびに勉強していましたから。

「レジメは作ったの?」「頭にあるからいいんだ」の押し問答。結局、もし途中で話につまっても、レジメがあると助かるからと押し切り、講演の前夜、私が夫の本から講演レジメと資料20枚を作製。プライドもあっただろうに、受けてくれた夫に感謝でいっぱいでした。

講演当日は司会にことわって講演前に、夫の事故のことを話し、こういう事態になってもここまでできるということを知ってほしいと話しました。終了後にはあたたかい大きな拍手をもらいました。

 

死は無念でなりませんが、夫から、どう生きたかがいかに大切かを知らされました。

 

コメント: 13
  • #13

    安藤美知子 (金曜日, 10 11月 2023 22:36)

    瀬谷君はクラスにはあまりいませんでした。(地区の仕事が忙しかったのが道子さん
    の先日の文章で分かりました)こちらの会議も参加できなかったのであまり話したこ
    とがなかったんですね。クールな感じで優秀だったのでみな一目置いてました。65
    才くらいのとき、井上君と50数年ぶりのクラス会を開いてくれたのが最後にあった
    ときとなってしまいました。桐の葉の集いという教育大卒業生の会にコロナ前に参加
    していたと教育大闘争を闘った後輩からメールがありました。英文科では瀬谷君ともうひとり
    と2名だけだったようです。

  • #12

    大分市 堀端優子 (金曜日, 08 9月 2023 18:11)

    瀬谷さんの伯父様浅川浩一氏と私の父松浪清が予科練乙七期の同期でした。
    昭和18年10月父が艦爆で出撃し九死に一生の状況で一機のみの生還し(ラバウル)、内地で治療のため戻る際、野戦病院に迎えに来てくれた陸攻機の船長が同期の浅川氏だったとの事。(父は長崎佐世保の病院で治療を受け、昭和19年5月に結婚、大分県宇佐市の航空隊で教官として勤務。20年4月特攻で出撃の朝、米軍の空襲を受け出撃出来ず)
    父の書いた「命令一下出立つは」の最終ページに書いてあったのを 瀬谷様が読まれて2005年(2002年父死去)に母宛にお手紙いただきました。
    父の書き残した文章で少しでも伯父様への瀬谷さんの想いが通じることができれば有難い事と思っております。
    伯父様が奥様に送られた手紙の写しも何通か保管しております。
    とてもこまやかで情熱なお手紙です。(瀬谷さんから送って頂いた)
    父は少しでも当時の状況を知ってもらいたく、資料を集め記録として残したかったのだろうと思います。母は父が夜中泣きながら執筆していたと言っていました。
    毎年8月を迎える頃 心の中にいろいろな想いが湧いてきます。
    一度実家を訪ねて来られた事があり、その時にお会いしました。
    その後数年年賀状を出しましたが、最近では2021年大分市に地震があった際メールを頂きました。
    ご冥福をお祈りいたします。

  • #11

    井上久朝  その3 (日曜日, 30 7月 2023 10:06)

    一つ思いだしました。

    大学1年の頃かと思いますが、英文科で2チームに分かれてソフトの試合をしたことがありました。

    瀬谷君がバッターのとき、2-3のフルカウントから、粘って、ファールを何本も打ち、最後にヒット

    で塁に出たことがありました。その回が終わってから、「粘ったなあ」と言ったら、「粘ったんじゃ

    ないんだ。きわどい球はファールで逃げたんだよ」と、プロ級の答え、感心しました。少年野球とか野球部に入ってたのかも知れませんが。

    因みに、小生はピッチャーで頑張りましたが、1年生主体の我々のチームは、1-4位で負けました。その頃は、まだ大学紛争もなく平穏な日々でした。時の流れは、誠、速いものですね。

  • #10

    井上久朝  その2 (日曜日, 25 6月 2023 20:00)

    大学1年のはじめの頃かと思いますが、英文科の学生の控え室があり、各自ロッカーを持ってました。ただしロッカーには名前は記されていませんでした。ある日、あるロッカーに「Sancutuary」と書かれた張り紙が貼り付けられていました。

    Sancutuaryとは、聖域 とか言う意味ですね。これはなんだ? 誰のだ? 一体何が入っているのだと、一年生の間で話題になりました。そのうち、そのロッカーを開ける者があり、瀬谷実 と判明したのです。そして 聖域! から取り出したのは、何と「少年サンデー」でした。

    当時学生の間で、赤塚不二夫の「おそ松くん」が人気で、特にそれに出てくるイヤミの「シエー!」が話題になっていました。その後「少年サンデー」を抱えて歩く学生を多く見かけるようになりました。彼はまあ、言わば流行の先取りをしていたのですね。

     注:「おそ松くん」は「少年サンデー」に、S37~S42頃連載されたようです。私たちの入学はS39と思われます。    
                                              2023.6.25                                                                               

  • #9

    井上久朝 (日曜日, 25 6月 2023 19:55)

    2023.6.12

    夫人のHP、拝見しました。編集長や自分史の塾など、すごい活躍ですね。こんな夫人をもつ瀬谷君を見直しました。彼の紹介の記事も拝見しました。大けがをされた由、大変だったですね。

    彼の高校時代のエピソード、英語の弁論大会あらしは、合点するところがありました。大学3年のときでしたか、クラスで英語劇「ハムレット」を上演したことがありました。彼は、教会の牧師を演じたのですが、発音がとても洗練されていて皆が感心したのを覚えています。(私は、墓掘りを演じ舞台監督をつとめました。)

    あまりPCやメールなど得意ではないので、少しずつ……。で、今日はこの辺で。

                    

  • #8

    頼高久夫 (木曜日, 26 1月 2023 11:17)

    瀬谷実さんは.しばしば高田馬場のジャパン・プレス・フォトに寄って頂きました。そのときはほとんど元プロボクサーチャンピオンの小林豆腐店から豆腐を取り寄せ持ち帰ってました。又私が妻と日光の休暇村に行ってた時奥様から.瀬谷さんが西日暮里のフォームで倒れたとの電話があり急いで帰り御茶ノ水の順天堂病院に駆け付けたらベットで休んでおられ、ホットしましたのをおぼいています。いずれにしても70代で亡くなられたのは、返す返すも残念でした、亡くなった時も本当に美男子でお顔もやつれてなく、今にも起き上がって皆さんご苦労様ですと声を掛けてくださうような気がしました。奥様も気落ちせず頑張って下さい、ご冥福お祈りします!

  • #7

    清水 卓 (火曜日, 10 1月 2023 16:25)

    實さんのご逝去をしらず、年賀を差し上げ失礼いたしました。
    送別には150人もの友人が集まられたとの由、彼の生前の生き方が素晴らしかったのだと改めて知らせれました。
    實さんとは、それほど深いおつきあいはなかったのですが、定年退職し、東京教育大学の桐花寮の集まりで、幾度かお話をお聞きする機会がありました。裁判闘争に敢然と立ち向かっているお話を聞き、世の中には、筋を通す立派な人がいるものだと、尊敬の念を覚えました。
    今回、奥様からいただいたお手紙によって、實さんの豊かでまっとうな人生にふれ、生前にもっとお話をお聞きする機会があったらよかったのにと後悔しました。
    とくに、民青中央、中央国際部などで活躍されたということでしたが、私もその分野の周辺で勉強してきたので、現場の貴重な経験談をぜひ聞かせてもらいたかったと思いました。
    信頼と愛にみちたご家庭のようすも素晴らしいですね。私の家庭も高齢者(私は満77歳)の二人暮らしですが、見習いたいものです。
    實さんとの山ほどの思い出を宝に、お元気でご活躍ください。





  • #6

    高草木 博 (月曜日, 09 1月 2023 12:49)

    瀬谷さんは、若かりし頃、渋谷区の神山町にあった民青の本部で「青年運動」誌の編集にあたっておられたという記憶があります。
      
      私が民青の周辺で仕事に就いたのは、1966年の春でしたが、それ以後、外郭・外回りの仕事が多く、親しくお付き合いするようになったのは1980年代に入ってからだと思います。
     とりわけ1984年以降、すでに1950年代の末から原水爆禁止世界大会に参加され、日本に移住されたアンドルー・ヒューズさんが原水協の英語刊行物とジャパンプレスサービス(JPS)の刊行物の英訳校閲にあたられていたこともあり、ヒューズさんに関わるイベントでは、瀬谷さんはいつも欠かさず参加してくれました。

     写真を2枚紹介します。一枚(上)は1994年、ヒューズさん・知子さんご夫妻がオーストラリアに帰国する前、その当時、国際関係に関わって活動していた人たちが一緒に、JPSの新しい英語校閲者アーニーさんのところにドライブに行った時の写真です。瀬谷さんにとっても懐かしい人たちがたくさん写っています。

     もう一枚は、2年後、亡くなったアンドルーさんの散骨を、知子夫人とともに伊豆の海で行った時のものです。残念ながら、その知子さんも昨年、オーストラリアで生涯の幕を閉じたとの連絡がありました。

     アンドルーさんは映画にもたくさん出演されていて、瀬谷さんは確か、その映画のリストも作成していたと思います。

     事故にあって以後、瀬谷さんは医科歯科大に通院される帰り、必ず原水協の事務所に寄ってくれました。いつも出がらしのコーヒー一杯だけでしたが、リハビリの話から昔から好きだったパソコンのプログラミングのこと、西武ライオンズのファンの仲間のこと、民青時代からの共通の友だちの消息など、ゆっくりと思い出しながら話していました。
     他に体に悪いところもなく、まだまだ長生きできるはずでした。今でも、何か、ひょいと姿を現してくれるような気がします。心からご冥福をお祈りします。 

  • #5

    緒方靖夫 (月曜日, 02 1月 2023 16:02)

    追悼文「どう生きてきたかこそが大切」を拝読し、長年の付き合いながら、優しさ、思いやり、そして、一定の頑固さ(理屈が立つことでは妥協しない)、何よりも個人の尊厳を尊重する生き方に改めて感じ入りました。初めて知ったことでしたが、息子さんに正面から向かい合った真摯さには、彼の真骨頂が示されていると思いました。

     国際部、ジャパン・プレス・サービスでの活動、党大会での翻訳部門を取り仕切る活躍は、今でも目に浮かびます。

     民族芸能を守る会に熱心に参加し、その道を究めていたことは、身の幅の広さの一端を示していました。

     また、よく話したことは、高校のことでした。水戸一高は、私の連れ合いが3年後輩に当たるという関係で、また、彼の父親が、そこで漢文の先生をしており、教わっていたこともあり、親しみを込めてよく話をしました。

     僕も年金裁判の支援をしてきましたが、その2人の担当弁護士は高校の同窓生でした。僕は、“これじゃ同窓マフィアだね”と、少しからかい気味いっていたのですが、確かに、依頼者、代理人の息がピッタリ合った活動でした。僕は、こうした時一番大事なのは、原告の意志の強さだ、それが裁判を切り拓くといっていたのですが、彼は年金関連の法律に相当詳しくなり、それと国家の不当性と徹底してたたかう頑固さが見事に結合していました。

     訃報を受け、仲間とお宅に伺い、お別れをしたときに、彼の好きなコーヒーをいただきながら、道子さんとおしゃべりしたことが、ついこの間のように感じられます。本部の部屋に飄々と入ってくるのではないかという感覚が去りません。そして、悲しみも容易には癒えません。

     でも改めて、平和、人権、社会進歩のために尽力された栄えある生涯に深く頭を垂れます。

  • #4

    稲村七郎 (木曜日, 29 12月 2022 16:17)

    瀬谷ちゃんの社会貢献の一断面としての年金裁判

     瀬谷ちゃんとこんなに早く別れが来るとは思いもよらなかった。渋谷区の神山町でともに活動したとき以来で50年を超えるつきあいだ。当時の仲間は今も折に触れて連絡を取り合っている。面倒見のいい瀬谷ちゃんは、飲み会などの幹事役で、仲間の要となっていた。

    《年金裁判に起つ》

    この仲間の大きな励ましを受けて瀬谷ちゃんと私は、数百万円にも上る厚生年金保険料を掛け捨てにする年金行政をただすたたかいを11年間にわたって続けてきた。そのことについて、長くなりますが、ここに記録することをお許し願います。

    老齢厚生年金は65歳までを「特別支給の老齢厚生年金」(特老厚)といって、65歳以降に支給される年金と別立てになっている。在職中は60歳までに納めた保険料に見合った年金額の支給だが、退職すると60歳以降の保険料分が退職改定によって追加される。また在職者は給料により支給制限があって、瀬谷ちゃんも私も退職まで老齢厚生年金は出ていなかった。

    《467万円が掛け捨てに》

    65歳になる1か月前に退職して翌月から特老厚の支給が開始されたが、その年金額には60歳以降の保険料分が入っていなかった。私の場合だと、60歳以降にかけた厚生年金保険料(本人負担+事業主負担分)は467万6111円だった。これがすっぽり掛け捨てにされていた。
    全国の社会保険労務士の皆さんの支援のもと、私が2012年6月裁判を起こした。
    争点は年金額を改定する「退職改定日」が資格喪失した日か、その翌月か、だ。
    1,2審で敗訴し、最高裁で審理中の2013年8月、瀬谷ちゃんが東京地裁に提訴し、私の裁判での国の言い分に全面的に反論した。

    《不死鳥のごとく蘇る》

    第一回口頭弁論を前にして瀬谷ちゃんは、頭部を強打する事故に見舞われた。集中治療室に駆けつけると、意識が戻らない中、「年金裁判…」と繰り返していた。
    車いす生活は避けられないという医師の見通しを振り切るかのように完全復帰を成し遂げて、瀬谷ちゃんは長い法廷闘争をやり遂げた。
    2014年11月東京地裁、2015年9月東京高裁で、保険料を掛け捨てにする厚労大臣の決定は違法と断罪、年金改定のやり直しを命じる画期的判決を勝ち取った。

    《最高裁判決に従わない国・厚労省》

    国・厚労省が上告。稲村裁判を契機に、1億円以上をかけて国の言い分と違う年金見込額
    試算システムを改修して矛盾がなくなったとして「別件(稲村)訴訟において是認された法解釈は、行政実務においても定着しており(注・大嘘)、これを否定することは、年金行政に多大な影響を与える」(国の上告理由申立て書)と、最高裁に泣きついた。
    2017年4月、最高裁は国の言い分を鵜呑みにして、保険料掛け捨てを合法とする逆転判決を下した。
    ところが厚労省が管理する年金原簿の記録は、退職改定日を例外なく資格喪失日としている。瀬谷裁判では、この事実を示したが、最高裁はまともな検証を行わなかった。原簿記録は最高裁判決から5年を経過した時点でも変えられていない。それは厚年法の他の条文との整合性がとれなくなるため変えることができないのだ。

    《卑劣な国の次の一手》

    最高裁判決と年金行政の抜き差しがたい矛盾をどうおさめるのか。国は2022年4月に施行された厚年法改正で退職改定日に関する条文を変えてしまった。
    厚年法43条3項の退職改定の規定を、退職改定した額を資格喪失した月の翌月から支給するとされていたものを、一律に「翌々月から」にしてしまった。条文で掛け捨て期間をつくったのである。被害を受ける人の数を飛躍的に増やすこととなった。

    《年金行政に監視の目を》

    年金行政を巡っては、5千万件の宙に浮いた年金記録問題など深刻な事態が繰り返されている。瀬谷裁判の経過と結果、並びにそれを受けた年金行政の実態は、厚労省の年金行政への姿勢を浮き彫りにしている。瀬谷裁判は、今後の年金行政をただしていく上での教材として活用してほしい と願っている。
    なお法的な検討は1・2審判決と最高裁判決を比較すると、説得力の違いが鮮明になる。

    道子さんがホームページを立ち上げて、瀬谷ちゃんの裁判の貴重な成果を記す場を提供してくれたことに心から感謝します。

  • #3

    奈良 勝行 (木曜日, 22 12月 2022 18:05)

    追悼文、HPとブログの書状を送ってくださり、大変ありがとうございました。瀬谷
    さんとは「Japan Press Weekly」でお知り合いになり、数年間いろいろ政治や英語の
    勉強を助けていただきました。また、私がパソコンを習いたての頃はわざわざ自宅ま
    で車や自転車で足をはこび、熱心に指導していただき感謝しております。時々奥様の
    ことを話され、「家内が今度こういう本を出版したから買ってくれないか?」と言わ
    れ、”指導料がわり”に買って読んだことがあります。

     本当に勉強熱心な人だと思いました。駅で負傷し、清瀬市内の病院にお見舞いに行
    きました。 「オレはまだまだやることがあるんだ」と意気込んでいたことが記憶に
    あります。本当に残念なことでした。私よりまだお若いのに逝ってしまって悔やまれ
    ます。

     追悼文の「どう生きてきたかこそが大切」には心を打たれました。 恥ずかしい話
    ですが、近年私も売れない本を2冊も出版し、家内と対立したりで自分に嫌気がさし
    てきた折り、この書状をいただき、初めから一気に読み通しました。少し「がんばろ
    う」という気が出てきました。瀬谷さんのことを思い、「彼に見習ってもっと頑張る
    かなあ」です。

     エッセーをライフワークにしていらっしゃる道子さんに学ぼうかなと思います。い
    つかお伺いします。
    今後のご精進を祈念します。

    奈良 勝行

  • #2

    藤木葉子 (金曜日, 16 12月 2022 01:04)

    瀬谷實さまと道子さんとは別々にお会いしていたので、ご関係を知ったのは後年になってからでした。今回の「追悼文」でお二人の波乱万丈で濃密な歩みを新たに知ることになりました。瀬谷實さまは30年以上前、原水爆禁止世界大会・国際会議の裏方としてお見かけしていました。瀬谷實さまはもちろん有能な翻訳スタッフの一員で海外代表の発言を直ちに翻訳、また大会宣言等を英訳という作業を徹夜を厭わずされていたことや穏やかな笑顔が思い出されます。
    謹んでお悔やみを申し上げ、遺されたみなさまがより良き日々をお健やかにすごされますように願っております。

  • #1

    坂本 (月曜日, 12 12月 2022 19:11)

    ご主人とお会いすることは叶いませんでしたが、瀬谷さんをお手伝いさせていただいたことで、
    ご主人のお話も少なからずお聞きしました。謹んで追悼の意を表します。お悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈りいたします。