あるジャーナリストは「現代は名詞が氾濫し、動詞が乏しくなっている」と言います。
昔はなじみの動詞が暮らしにたくさんありました。。鉛筆を削る、薪で風呂をわかす、お米をとぐ、雑巾で床を拭く等々。便利で簡単になって手や頭でなくて、指一本でできるようになってしまった。スマホですね。
失われていったのは「感じる」こと。体で感じる。体で知る。それは体で学ぶことでもありました。
そういえば毎日って、起きる、食べる、歩く、しゃべる、出会う等と、動詞の繰り返し。
それが生きるということでした。塾でよく紹介するのがエッセイスト・三宮麻由子氏の作品。子どものころ視力を失った方です。
雨が降る場面の描写をどうぞ。
「トタン屋根にあたって短い余韻を残す平たい雨、門柱に落ちてカアンと小気味よく散る雨、路肩に転がった空き缶に見事命中してキーンと歌う雨~足元のアスファルトにも一面に雨滴が降り注ぎ、響きのない不思議な広さの音をたてていた。~自分から音をたてないために、ふだんは私にとってほとんど無に等しい存在である街並み。それが雨の日だけ世界でたった一つしかない楽器に生まれ変わり、~次々音を紡ぎ出しては私の鼓膜にぼんやりと輪郭を表してくれる。その輪郭を物語る音が空中で混じり合うのを聞いていると~雨の日だけの特別な景色を楽しむことができる」
降る雨でこんなに感情がわき、世界が広がるなんてとても想像できません。雨はテレビの天気予報で知り、出掛けるのに面倒になるではないかと邪魔モノ扱いにするのがほとんど。
「感じる」自分でいるには力がいるのです。
「ものごとを上からばかり見ないでときには這いつくばって見る。視線を低くすると、別の世界が見えてくる」と言ったのは、ミミズやダンゴ虫など土壌動物を撮り続けるある写真家。
地球の生態系を支えるのは、落ち葉の下の土壌動物ではないか、大地を見下ろすことしか知らない者に、大自然の何が分かるかと叱ります。
エッセイを書くときの大事な視点です。ありふれた日常をちゃんと見て笑いをちょっとふりかければ一丁上がり。
B子さん作です。「キャベツは千葉県産、豚ひき肉は国産、タマネギは北海道産、卵は所沢養鶏場。材料はみな国産だ。これでロールキャベツをつくる。みじん切りのタマネギとひき肉、そこに卵を混ぜる。すぐ跳ね上がりたくなる血圧なので、入れたつもり程度の塩加減。ゆでたキャベツで具を包み鍋に並べる。八つできる。水、トマトソースを用意。オヤッ、このソースはオランダ産、ずいぶん遠い所から来たのね。水は少し、トマトソースはたっぷりで煮込んでいく。若いころはブイヨンやバターを加えた。こくが無いと満足できなかったからだ。
六十代も後半になると、くどい味は苦手。
タマネギを半月に切って焼き目をつけ、ロールキャベツの隙間に押し込む。タマネギって不思議。熱を加えると甘くなる。『タマネギさん、タマネギさん、おいしくしてね』。おまじないも調味料。待っている間にテーレビでも見ようか。ダメツ。この間、鍋を真っ黒にしたんだっけ。
手持ち無沙汰に菜箸でロールキャベツをつっつく。ゆるゆるだ。性分なのか、ギュッと包みこめない。
『これはロールキャベツじゃない』と夫が笑う。『老齢者がこしらえたからローレーキャベツ』と私。ただただキャベツの軟らかさを感じたくてつくる。だったらキャベツと肉で煮ればいいようなものだけれど、そうはいかない。ひき肉をくるまないとキャベツはいい味をだしてくれない。
鍋がクックッと笑っている。さあ、いちもくさんにおいしさのゴールをめざせ」
食育と基本は同じ。会話で育てたい。育ちたい。食事や風呂で、喫茶店でもいいけれど、まずは相手の話をじっくり聞くことに尽きます。脳科学ではキレやすい子は小さい頃の会話不足、いわばコミュニケーションができないことが影響していると言われるとか。
モノを書くことは実は自分が普段語ることばが土台にあって始まる気がします。これが貧弱だったり、聞くに堪えない下品なものだったら、感動するエッセイなんて、とてもとても。文を磨くということは、じぶんの中に潜んでいることばを磨くこと、常に研鑽するということなんでしょうね。
人はことばを操っていると思いがちですが、どうも「人はことばにいたわられて生きている」とも言えそうです。
不安なときはそれを癒してくれる語感のことばに惹かれるし、辛いときはそれを吹き飛ばしてくれることばを選んで使うようですから。だから娘が「ウッセェ、クソばばあ」と叫んでも、ああイライラを吹き飛ばしてるんだなあと笑ってやり過ごしましょう(そうもいかないか)。
「塾では視点がポジティブであることをすすめます。品があること、に通じます。かしこまったようで、引いてしまうと言われそうですが、単純なのです。批判ばかりしたり下品でないこと。下品な書き方は説得力がないからです。ヨガに通う生徒さんが「ヨガの先生は、身ぎれいにして品のいいことばを使っていれば暮らしやすいはず、と教えてくれた」と話しました。
最近強く気になっていますよね。自民党国会議員の口汚いののしりのことば。事実認識がなく、反省の全く見えない釈明ばかりの大臣。ことばの使い方がおかしいんじゃないの?
さらに私たち世代が気がかりなのが、電車や町で見かける、スマホに夢中で子どもに顔を向けてやらない親たち。
下品ですが、「スマホなんてやめて子どもを見てやれよ」と、一度言ってみたい。
先日、生徒さんが塾の休憩時間に読んでくれた知人からのメールに、わが身を重ねちゃいました。
「恋に溺れるのが十八歳、風呂で溺れるのが○○歳。道路を暴走するのが十八歳、道路を逆走するのが○○歳。心がもろいのが十八歳、骨がもろいのが○○歳。偏差値が気になるのが十八歳、もう何も覚えていないのが○○歳。まだ何も知らないのが十八歳、もう何も覚えられないのが○○歳。自分探しをしているのが十八歳、みんなが自分を探しているのが○○歳。家に帰らないのが十八歳、家に帰れないのが○○歳。東京オリンピックに出たいというのが十八歳、東京オリンピックまで生きていたいと思うのが○○歳」。
だからというわけでもありませんが、エッセイはぜひおすすめしたい。自分の考えや思いを表す作業のため、それらがないと成り立たず、ボヤ~と過ごしていてはとてもまとまらないシロモノだからです。
今回の宿題は「読書エッセイ」。
感想文ではありません。コツは「上から目線で行け!」。著者の代弁をするかのようにまとめる人がいますが、これはダメ。著者にひれ伏しては情けない。もっと偉そうでいいのです。「私をこんな気持ちにさせるなんて、あんた、たいしたもんじゃないの」と、デカイ態度で。いくら著名な作家でも、著書におうかがいをたてる姿勢ではいけません。どんな刺激を与えてくれたか、どんな未知のことを知らせてくれたかが大事。その部分こそテーマにします。些細なことも、自分の視点がわずかでも変化するなら、その視点で身の回りを見直すと違う世界が現れる。この調子で書いてこそ感想文を超えてエッセイになるのでは。
人生には意気軒昂な 「上り坂」と、熟年以降 の「下り坂」(あまりいい 響きではありませんが) と、もうひとつ「まさか」 という坂があります。
この坂は相当な曲者 で、言葉の響きがどうも いけません。近寄りたく ない感じというか、いや ーな悪いことが起こると 言うか。
でもどうやら「まさか」 に立っているのは私たち 世代が多いようです。
「まさか、夫が倒れるな んて」「まさか、母が認知症とは」自分にはあり得 ないと信じていた (信じ ようとしていた)ことが 突如現実に起こってしま う。続いて「どうして私に (が)」と自問してしまう。
A子さん(六十八歳) もそうでした。転勤族だ った夫婦の終の住み家と して選んだのが山里の民 家。自給自足でこじんま」 りとした暮らしを楽しむ はずでした。ところが住 んで二年目に夫は急死。 まもなく「心配だから」 と転がり込んだのがアル バイトで生活しているニ 人の息子。もう三十代後 半です。 ホントの理由は 独身のため、歳をとった らアパートを借りにくい とかなんとか。どんな暮 らしに変わったか想像にあまりあります。
そりゃないよねえ、せ っかくゆっくりできると 思ってたのにと同情する。 と、A子さんはそうでもなかったのです。人手が ある、広い家がある。そ れじゃと自宅をカフェ& ギャラリーにしてしまっ たのです。こんな人通り のないところで? やっ ていけるの? と考える のがダメなのだと言いま す。こんなところだから できることがある。それを考えるのが面白いし、 息子たちの感性がまぶしいほどなのだと。
傑作なのが展示会。年 配の方たちのハガキ大の 作品展ですが実物のインゲンやら間引きした大根 を乾かしてくっつけるな ど、見応えのある作品に 仕上がっていたのです。
息子たちのくすぶって いた力を引き出すことに なったようです。 思いが けずオーナーになったA子さん、「まさかこんな ことができるなんて」と 新たな発見に嬉しそう。 「上り坂」では考えもし なかった生き方でした。
「まさか!」が来たら、 さて自分はどっちに転ぶ か考えてみてはどうでし ょう。
「置かれた場所で咲きなさい」という言葉、ご存知ですか。順調に自分 の道を歩いている時、連 れ合いに突然地方や海外 への転勤命令、または意 に反して引越さねばなら ない事態になった時、あ なたならどうしますか。
人に振り回されるなん てとんでもない、私は私よ、と言われそうです が、こんな女性もいます。
Fさん(六十歳)はタ イ在住。職歴は履歴書に 書ききれないほど。連れ 合いの転勤ごとに職探し に奔走、自分のポジショ ンを作ってきたからで す。転勤は国内3回、海 外3回に。 連れ合いには仕事もポ ジションも確保され新天 地がある。妻には何もな い。友人からは「単身赴 任の選択はなかったの?やりがいのある仕事を手放すなんて」とよく言 われたそうです。 待てないわけでもないけれど、常に同行を選んできました。
だって海外で暮らせるチャンスはそんなにはあ りません。スキルは体に 沁み込んでいるはず、そ の力があればどこでもや っていけるはず。Fさん はそう考えて自分を奮い 立たせて来たのです。
出張先はゴビ砂漠方面 や地雷の危険と隣り合わ せのことも。自分だけが安全な日本に残るなんて とてもできません。そりゃ築き上げた仕事 を辞めるのは辛い。でも 海外の新しい環境で挑戦 できる楽しみも大きかっ たのです。
今やらねばならないこ とは全部やる。やれなく てもやれるように段取り をする。いつしかそう考 えて動く生活スタイルが 身についていました。仕 事を捨てて来たからでき る体験もあったのです。
このほど足跡を1冊に まとめたFさん。「自分にとって何が大切なの か」「これからの未来を どうしたいのか」が問われていると実感。
「できると信じる」 妙な過信を仕事に向け、日 本の介護用品を海外に紹 介販売するため医療機器 販売のリサーチをしてい るところ。
国民性の違いや商品の ミスマッチあり、頭を打 ちながらもバンコクで地 盤固めを続けています。
これからの自分をどう したいのか。自問はまだ続きます。
考えてみれば、書くという動作には、どうも「よりよく見せよう」「自分はこんなもんじゃない」という虚勢というか見栄がつい働いてしまうようです。
謙虚であるはずの自分が、と、ここでドキッとしてしまうのですが、「文章を書くのが難しいのではなくて、うまい文章を書くのが難しい」のだから、うまく書こうと思わなければいいんですよね。たぶん誰もが「うまい文章」と思っている。のはプロの文章だからです。プロまではいかないけれど、私たちだって「分かる文章」は書いているはずだし、書けるはず。それに「あんなものぐらい私でも」と、つま先立ちたい自分って、格好いいではありませんか。
ここでちょっと考えておかなければならないのは、自分の頭の中にあること以外は書けないということ。いいものを書こうとするなら、頭の中にいろんなものがないとだめなのです。結局、うんと学んで、よく見て、感じる自分であることが、まずは必要なのです。